ことばとあたまとその他もろもろ

勉強して学んだ言語で、どれだけ「語感」を手に入れられるのだろう。だめだよ、だめだよー、だめだよ〜、だめだよっ、だーめだぁよ、この違いは、外国語として日本語を話す人にも分かるものなのか。もちろん会話であれば、声の高低や強弱、表情や手ぶりなどの言語以外の要素が大きく関係するから、文字の情報上の差異なんてたいしたことがないのだけれど、やはり読んだときに感じるものの差はとてもとても大きくて、その大きさを母語で感じるたびに、ああ私はこの差を他の言語では感じられないのかな、と途方もなく寂しくなる瞬間がある。あとは情報を受け取ってから意味を理解するまでのタイムラグも、訓練で縮まるはずなのだけど、やはり母語とコンマ一秒まで同じとはいかないだろうなと思うとなんとも言えない気持ちになる。

私はイギリスのロックが好きだけど、日本語の曲とは明らかに受け取り方が違う。まずメロディーが頭に川のようにどーんと流れて、知っていて、聞き取れる単語がぽつりぽつりと流れていく。けどその量はとても少ないから、川と一緒に何が流されているのかさっぱり検討がつかず、結局なんとなく好きな水の色だなぁ、川底には何があるんだろう、魚はいるのかしら、という具合に興味を持ったものだけ、自分の足で調べに行くのだ。そうしてやっと、あの影は鯉だったのね、あら源流はあっちなのね、と知る。ただ、自分の興味なんて本当にあてにならないし、その調べた内容も、英語をそのまま理解しているわけではなくて、日本語のクッションがどうしても挟まるのだ。受験のときに丸暗記した知識が、勝手に頭の中に飛び出してきて、「accept=受け入れる、だね!」「benefit=利益、だけどここではちょっと意味が通じないなぁ、インターネットで調べてみたら?」と勝手にちゃちゃを入れてくる。自分がそうだから、外国語を処理の過程を含まずに理解する、という感覚が理解できないし、外国語の音楽はどこまでいっても「よそ」の国の言葉の音楽だなと思う。と同時に、すごく寂しくなってしまうのだ。私はこの曲が好きだけど、きっと何もわかっていないんだろうなぁと。日本語だって完全な理解はできないけど(そもそも言葉の意図だなんて発したものにしかわからなくて当然だし)、間に横たわる距離が違う。し、母語なら意味のなさを楽しむこともできる。やくしまるえつこがペペロンチーノキャンディと書いた意図はわからないけど、その語感を楽しむことができる。でも、外国語の場合は、まずその単語に意味があるのかないのか判断するのに時間がかかる。Googleで検索したけど何もでてこないからきっと意味がないんだろうな、とタブを閉じるときに、切なくなるのは私だけですか。

中学生の頃から外国語の理解の可能性の限界は感じていた。っていうか、dog=犬、っていうのもイマイチ信用しきれなかった。誰かが勘違いして、訂正するのが面倒だからそういうことにしたんじゃないの?とかね。そのうちそんなことを考えても意味がないと思って諦めたけれど。でも、dogと犬だと、そこから受けるイメージが少し変わるのが面白い。

もちろん、言葉とイメージのズレは同じ言語だから存在しないなんてことはないだろう。冬といえば北海道民は雪一面の景色を思い浮かべるだろうし、私なんかはマフラーと手袋、乾燥した青い空を思う。そういう意味では、言葉ほど無責任なものってないのかもしれない。でもだからこそ楽しいんだろうね。作るのも受け取るのも。正解の不在性が、自由さを支えているのかもしれない。で、外国語を勉強していて何が悲しいって、その自由の中で遊ぶところまで行けないところ。もっと勉強したら違う景色が見えるのかな。でもやっぱり少し寂しく思う。

同時に、一つの言語だけだとしても、語感を味わう余裕がある幸せも強く感じる。日本語なんて日本でしか話されないし、英語が母語だったらよかったのに、と思った時期もあるし、今もたまーに思うけど、きれいな日本語に触れてこころがぶるんとしたり、言葉から直接映像を受け取ったりすると、ああ幸せ、と思う。バイリンガルの人は、この幸せが2倍感じられるのかなぁ、いいなぁ。東京のお隣育ちの私にとっては、方言を話す人だって一種のバイリンガルだ。私が方言のある地域に生まれたかったのは、方言にしかない感触って必ずあるはずで、それを体感として得られるってとても素敵なことだと思うから。もしこれから方言のある地域で暮らす機会があったとして、それからでも遅くはないのかしら。むむむ