メランコリック・ディクショナリー

何してるときが幸せ(楽しい)?と聞かれると、私はいつもおいしいものを食べるときと、音楽を聴いてるとき…と答えるんですけど、幸せとかうれしいとか悲しいとか辛いとか、使われすぎて言葉の定義の幅がゆるゆるになってきているな、と感じる瞬間があります。感情に直結した言葉って、恐ろしく自然に習得しているので、幼き頃の私がどういう感情を幸せと定義づけて覚えたかなんてとっくに忘却の彼方な訳ですが、いったいどうやって学んだんだろう。過去の私と対談できたらよかったのに。

 

私は遊園地があまり好きではありません。でも嫌いでもないから、好きじゃないことになかなか気付けなかったんです。遊園地から帰ってきて親に「楽しかった?」と聞かれて、条件反射的に「うん」と答えながら「私、遊園地、楽しんでたんだ」と気付く、というか、うんと答える私をもう一人の私が「えっ、あんた楽しんでたの」ってつっこんでくるみたいな、変な感覚。携帯で撮った写真を友人に送るときに、今日は楽しかったね♡なんて打ったりしながら、楽しかったと思おうとしてた部分もあるかもしれません。

大学2年生の春、ずっと好きだったバンドのライブに行って、私の楽しいの定義は変わりました。こうやって書くと大げさになるから嫌だけど、「あー楽しかったー」と勝手に口をついて出てきて、びっくりしたのを覚えてます。そのときは、つっこみ役の私はでてこなかった。それでこれは本物だぞ、と確信できてすごく嬉しかった。

自分の感情に自信が持てないというのは、ひどく収まりが悪くもどかしくて、気に入った綺麗な箱にいろいろ詰めてみたら少しスペースが余ったときのような、なんとも言えない気分になります。見た目は立派なのだけど、何せ中身はぴったりじゃないから持ち上げるたびカラカラ音がする。その音は小さくて自分にしか聞こえないからまあいっか、聞こえないふりしとけばいいか、って諦めた途端、綺麗な箱までくすんで見えたり。

最近は、見た目の立派さを取り繕うがために、いろいろとすかすかなままとりあえず並べ立てて、えへへえへへと笑うことが増えて、大人になったなぁと思います。ヤバくない方がヤバいような雰囲気さえある気がする。ヤバくなくなくなくなくなくない?

なんて言っているけど、別にみんな正直であれなんて言ってるわけではなくて。みんなが正直に生きたらそれこそ「ヤバい」でしょ。ただ、今はぱんぱんだと思い込んでいるだけで、この先もっと大きくてきらきらした箱に収まるだけの何かに出会うかもしれないと思うと、あーもう全部つまらないくだらないって思ったときに、ちょっとるんとできていいなぁと思うのです。まあ世界はバカみたいに広いから、そこまでたどりつけないかもしれないけど、そのときはそのとき。せっかく陸上にいるんだから、気軽に息を吸っていきたいものです。