この物語はフィクションです

わーお久しぶりです。

もう今年度も最終月、3月ですね。花粉が飛び始めて、日中はコートを脱げるようになって、洋服屋さんには明るい色が並ぶようになりました。年が変わる12月よりも、年度が変わる3月の方がそわそわするのは私だけでしょうか。

 

ふと、「この今私が見ている世界はフィクションなのではないか」という気持ちになる瞬間があって。不思議なことに悲しい気分の時はそうは思わずにひたすらめそめそできるけど、たまに嬉しかったり楽しかったりするとき、もしくは何も考えずにぼーっとしている瞬間に、「あれ、この人生って本当にノンフィクションだっけ、現実だっけ」と頭の回転が止まる。

もちろん私はフィクションではなくこの世に存在していて、特殊能力があるわけでもない平凡な人間なのだけど、その疑問が頭に浮かぶと同時に、人生がフィクションだったらいいのに、と思ってしまう。フィクションだったら、物語は私一人の視点だけで進まない。章が変われば別の視点から同じストーリーが語られるかもしれないし、次の章を待たずともナレーターが鋭い観察眼を働かせて、他の登場人物の誰かの表情のこわばりから隠された気持ちに気がつくかもしれない。

ノンフィクションのなにが残酷かって、このアナザーストーリーを読めない、聞けない、知れないことだと思う。私が意地悪だと思っているあの子にもあの子なりのストーリーがあって、正義も道徳も情けもきっと存在していて、あらゆる行動に裏付けがあるはずなのに知ることはできない。コミュニケーションなんてあたかも相互的であるような言葉だけど、実際は至極一方的で、あらゆる過程をすっ飛ばした最終結果の行動でしかその人を判断できないし、例えば手や眉の動きとかで「何か」を察することはできても、それは現象からの憶測でしかない。その憶測も自分の背景知識からしか生み出せないのだから、どうしても限界を感じてしまう。

この読めない、聞けない、知れないことはノンフィクションの優しさでもあることは確かで、自分のいないところで囁かれる陰口を知ることはないし、自分の振りかざす正義やら情けやらによって傷つく人たちの悲鳴を聞かずに済む。それはそうだけど、その優しさは疑心や裏切りも生むのであって、やっぱり優しいという形容詞は不適切だと思う。この人は優しくしてくれるからいい人だ、って言い切れたらいいのにね。

こんなことをぐだぐだ言っても結局はノンフィクションの中に身を置くことしかできないので、今日も他人の言葉尻を捉えてああでもないこうでもないと的外れかもしれない推測をする。知れることだけが現実だ!と開き直って想像することを放棄するのと、勝手にあれこれ詮索するのとどちらが悪なのだろう。私は、想像しようとすることはとても大切なことだし、想像力と優しさは少し似ていると思う。ただ、そのベクトルを間違えて何度も失敗したことがあるし、根拠なき詮索を悪とする人に「想像力を持つ努力をしないのは冷たい!」と指をさすのが正しいとも言えないので、結局どうすべきなのかよくわからない。

でもドラマや漫画を見ていると、ほとんどの人がよく分かっていないようなのでちょっと安心する。分かれ道にぶつかるたびに話し合って道を選べば、一人でさまようことはないもんね。