それほど支配もされていない

大学を卒業しました。

考えてみたら、これが人生で最後の「卒業」なんですね。これから先学校に入り直すことがなければの話ですけど。

4年間、長かったしあっという間でした。考えれば考えるほどどっちなのかわからなくてトリックアートみたい。

暗い曲しか聴けなくて、美味しいものを食べても罪悪感ばかりで、駅に向かって歩いている途中に突然泣き出したりしていた1年生のときは、はやく、はやく卒業したくてたまらなかったんだけど、今はそれなりに大切な友達ができて、中には大好きな友達も少ないけれどいて、楽しい趣味もできて、卒業するのが寂しいなと思ったりします。また遊んでくださいね!とか、いつでも遊びに来てくださいね!と言われるのは嬉しい、それはそれはとっても!

もっと話しかけていれば、仲良くする努力をしていれば、愛想よくしていれば、あんなこと言わなければ、っていう反省や後悔もたくさんあるけど、高校を卒業するときもおんなじことを考えていた気がしてちょっと落ち込む。いつだって積極性と思慮が足りないんだ私は

当てもなくぶらぶら歩いたり、だらだらおしゃべりしていた、たわいのない時間がいまになるととっても愛しくて、全部まとめてぎゅっと抱きしめたくなります。無駄な時間だって他人から鼻で笑われるようなものこそ、私にとっては大切だったの。

 

春からどうなるのか、自分でもさっぱり分かりません。激務と言われる職種なのでメンタルの弱い私は早々とドロップアウトするかもしれないし、一方身体はタフなので意外と性に合って続くかもしれない。どうなるにせよ、一生懸命がんばるしかないね。いままで年上の人とうまく関係を築けたことがあまりないので、今度こそは素敵な先輩と仲良くなりたい。

極寒の卒業式だったがゆえに風邪を引いて、ベッドの上でこれを書いているので、まずは早く治してお花見に行きたいです。おやすみなさい。

この物語はフィクションです

わーお久しぶりです。

もう今年度も最終月、3月ですね。花粉が飛び始めて、日中はコートを脱げるようになって、洋服屋さんには明るい色が並ぶようになりました。年が変わる12月よりも、年度が変わる3月の方がそわそわするのは私だけでしょうか。

 

ふと、「この今私が見ている世界はフィクションなのではないか」という気持ちになる瞬間があって。不思議なことに悲しい気分の時はそうは思わずにひたすらめそめそできるけど、たまに嬉しかったり楽しかったりするとき、もしくは何も考えずにぼーっとしている瞬間に、「あれ、この人生って本当にノンフィクションだっけ、現実だっけ」と頭の回転が止まる。

もちろん私はフィクションではなくこの世に存在していて、特殊能力があるわけでもない平凡な人間なのだけど、その疑問が頭に浮かぶと同時に、人生がフィクションだったらいいのに、と思ってしまう。フィクションだったら、物語は私一人の視点だけで進まない。章が変われば別の視点から同じストーリーが語られるかもしれないし、次の章を待たずともナレーターが鋭い観察眼を働かせて、他の登場人物の誰かの表情のこわばりから隠された気持ちに気がつくかもしれない。

ノンフィクションのなにが残酷かって、このアナザーストーリーを読めない、聞けない、知れないことだと思う。私が意地悪だと思っているあの子にもあの子なりのストーリーがあって、正義も道徳も情けもきっと存在していて、あらゆる行動に裏付けがあるはずなのに知ることはできない。コミュニケーションなんてあたかも相互的であるような言葉だけど、実際は至極一方的で、あらゆる過程をすっ飛ばした最終結果の行動でしかその人を判断できないし、例えば手や眉の動きとかで「何か」を察することはできても、それは現象からの憶測でしかない。その憶測も自分の背景知識からしか生み出せないのだから、どうしても限界を感じてしまう。

この読めない、聞けない、知れないことはノンフィクションの優しさでもあることは確かで、自分のいないところで囁かれる陰口を知ることはないし、自分の振りかざす正義やら情けやらによって傷つく人たちの悲鳴を聞かずに済む。それはそうだけど、その優しさは疑心や裏切りも生むのであって、やっぱり優しいという形容詞は不適切だと思う。この人は優しくしてくれるからいい人だ、って言い切れたらいいのにね。

こんなことをぐだぐだ言っても結局はノンフィクションの中に身を置くことしかできないので、今日も他人の言葉尻を捉えてああでもないこうでもないと的外れかもしれない推測をする。知れることだけが現実だ!と開き直って想像することを放棄するのと、勝手にあれこれ詮索するのとどちらが悪なのだろう。私は、想像しようとすることはとても大切なことだし、想像力と優しさは少し似ていると思う。ただ、そのベクトルを間違えて何度も失敗したことがあるし、根拠なき詮索を悪とする人に「想像力を持つ努力をしないのは冷たい!」と指をさすのが正しいとも言えないので、結局どうすべきなのかよくわからない。

でもドラマや漫画を見ていると、ほとんどの人がよく分かっていないようなのでちょっと安心する。分かれ道にぶつかるたびに話し合って道を選べば、一人でさまようことはないもんね。

さくら横ちょう

再会という単語はとにかくロマンチックに響いて、多くの人が一笑に付すような「運命の再会」なんてものにも、一抹の期待を寄せてしまうようなことがあります。

まだ暑かったときの話です。ずっと一目惚れなんてありえない、中身を知らなきゃ人を好きになんてなれないと豪語していた私が、出会って、いや、厳密には挨拶を交わしてから30分も経たないうちに恋に落ちました。

相手とは同じ電車に乗っていて、会話をしながら「一番初めに恋に”落ちる”という動詞をあてはめた人は天才だ、本当に”落ちた”わ、そういえば英語もfall in loveだなぁ」などと考えている間に、いつもの3倍の速さで電車は目的地に着いてしまいました。

電車から降りる直前、相手の連絡先を聞きたい、という下心が頭をもたげたのですが、自分への自信のなさがその下心を遥かに上回り、私は何も言わず手だけひらひらとさせて電車を降りました。そしてホームから、遠ざかっていく電車を眺めながら、あともう少し可愛かったら、肌の調子が良かったら、メイクがうまくいっていたら、「あの、連絡先教えてください」と言えただろうか、と考えて、自分の馬鹿さに呆れて思わず笑ってしまいました。

それ以来、同じ路線の電車に乗る度にキョロキョロして、もしかしてまた会えたりしないかしらと少し期待して、その度にそんな上手くいくわけないわと自分を慰めて、を繰り返していて本当に馬鹿だと思います。でも、もしあそこでみっともなさなんて構わずに声を掛けていたら?ひょっとしたらもう一度会えて、三流の恋愛映画のような物語を作れたのかもしれないと思うと、その物語の中で笑っている私に、自信が持てなくて、勇気が出せなくてごめんね、と謝りたくなります。一時の恥に負けて、あなたを幸せから遠ざけてしまってごめんね、と。再会できたってそんな上手くはいかないのはわかっています。仮に会えたとしても私はきっと自分の憧れるものに引け目を感じて、後ずさりしてしまうでしょう。

夏は終わって、短い秋も過ぎて冬になり、あと数時間で2016年最後の一ヶ月が始まります。いつまでも一夏の思い出を引きずっていてもよくないと思って、供養のつもりで書きました。明日は美容院に行って髪を切る予定です。髪が短くなっても、きっと電車に乗る時にはキョロキョロしてしまうでしょうが、もし次に眩しいところにぶつかったら、その時は自分から歩み寄っていけるようにしたいな、と思っています。

虫眼鏡色眼鏡

怖がりなくせに、ダメなものにひかれるきらいがある。

一回くらい心ゆくまでダメになってみたいものだけど、その一回が人生にどれほど影響するのかを考えると怖気づいてしまって、ピアスの穴さえも開けられないまま21になってしまった。真面目そうって言われるのも飽きてきたし、今年の後半のテーマは今までの私が選ばなさそうなものを選ぶ、にしようかな。

 

他人と話すのは好きなんだけど、自分の中身についての深い話は苦手で、延々と世間話をしていたいと思ってしまう。

もっと上手に嘘をついて、ぺらぺらとあることないことを言えればうまくやっていけるのに、それで嘘も下手だから難しい。

就活でばんばん内定をもらっていた友人は、「就活なんて人当てゲームだよ、向こうが欲しそうな人物像を当てて、その通りに答えればいい」なんて言っていたけれど、そうやって器用にできるのも一つの才能だと思う。

こういう顔の見えないところでだったらなんでも書けるけど、顔が見える状態で、自分の口から直接となると途端に恥ずかしいような、居心地の悪いような気持ちになってしまう。このまま中途半端な秘密主義みたいなこと続けていても良くないとは思うのだけど、難しいですなぁ。

紅水晶のネックレス

おはようおはよう、お日様はすでに高く昇っていますが

夏ですね、私はまだ海に行けていないので海に行きたいです。浮き輪にはまってぷかぷかしたい。

考えるべきことも考えねばならないこともたーくさん、そりゃもうたーくさんあるのだけど、なんだかもう疲れてきちゃったし、考えても考えなくても同じなのでは?結局やってみないとわからないのでは?モードに突入してきた。思考停止一歩手前

優柔不断な人にとって、何かを決めるってすごいストレスなのよね 助けてフェアリーゴッドマザー

何でも楽しんでいたい、と思う。そのためには楽しむ努力もしなくてはならないんだよね、きっと

楽しいんじゃなくて、楽な方に流れていっちゃいそうで怖いから、今日はとりあえず部屋の掃除でもしようかしら

青空に映える立葵

昼間の日差しは夏かなぁと思うんだけど、夜になると涼しい風があるからまだ私の中では夏は夏でも本番前って感じ。真夏の、日が暮れても空気がもんもんと暑くて息がしづらい感じはまだない。

 

どちらとも言えないって便利な言葉だよなぁ、なんて意味があるのかないのか分からない性格診断を受けながら思うのです。まぁ、悪い部分をごまかしたくて分からないフリをするときもあるけど、本当に分からないこともそれなりにあるのよね。自分って外側から見たことがないから、20年以上ずっと一緒にいるけどまだまだ謎な部分がある。

 

今日スーパーに入ったら甘い香りがぷんと鼻をつついて、左を見たら桃がワゴンに積んであった。桃は個人的に秋の果物というイメージなのだけど、実は夏が旬なんだよね。蚊に刺される度に「夏、許さない」と思うけど、おいしいとうもろこしに枝豆、トマト、冷やし中華やすいかを食べるとついついにっこり許してしまう。

 

駅のホームに花火大会のポスターが、電柱には夏祭りのポスターが貼り出されて、ああもうそんな季節ね、って感じ。今年も、最高の夏を目指したい。でも、私は現在上下真っ黒なスーツでトーキョーを歩き回る例のイベント真っ最中なので、先にそっちを頑張らないと。最高の夏よ、待っててね。

リュックの中でつぶれたおにぎり

季節の中では、夏の概念が一番好き。体感としての夏じゃなくて、夏のイメージが好き。でもこれは根がインドアだからかな。

それでも初夏から梅雨を乗り越えて、少しずつ本物の夏に移り変わっていく日々はとてもわくわくするのよね、したいこともぽんぽん頭に浮かんできて、今年は浴衣を着て花火を見たいなとか、ワンピースを着て海辺に行きたいなとか、ちょっと電車に乗って都会を離れてみたいなとか、フェスに行ってみたいなとか、もう何でもできて、どこへでも行けるような気さえする。

実際に夏が来てみれば、私は常に顔を真っ赤にしていて「夏のお嬢さん」のような可愛らしいイメージからは程遠いし、日傘は荷物になるし、日焼け止めを手足に塗っていると遅刻しそうになるし、もう夏なんてイヤ、と眉をひそめて、バイト先と家の往復で終わってがっかりしてたのは去年だったかな。

でも、いわゆるパリピとリア充だけのものじゃない感じがいいよなぁと思うのです。私は夏と聞いて一番先に頭に浮かぶのは、曽祖母のお墓参りへ行く途中の二両列車から眺める田んぼの景色だったり。やっぱり幼少期のイメージは強いのかな。あぁ、夏といえば夏休みで、旅行に行くにも荷物は自分の着替えとおやつだけだった頃に戻りたい。

なんて言ってみても時間は絶対に遡れないので、今はいかにお金を貯めつついい思い出を作りつつ社会に出る準備をしなければ、ふぬー